切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

京都府久世郡久御山町 荒見神社・・・城陽市にも荒見神社が


 久御山町荒見神社



 以前このブログに載せた城陽市の荒見神社と同じ名前で、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927) に記載されている荒見神社が、どちらなのかということの結論は出ていない。一時は久御山町の荒見神社の方だとする説が有力だったが、今では城陽の方ではないかとも言われるが、決定的な証拠にあたるものがないまま共に論社扱いになっている。
 国道1号線の田井地区にあり、久御山町の野球場やテニスコート等の運動施設が集中しているところで、その周りは住宅街となっている。1号線からはちょっとした森が見えるので、すぐにわかる。

    

 久御山町の地域はかつて小椋池の南部にあたる場所で、そこが干拓されて住宅や工場が広がっている。荒見神社の近くには木津川が流れ、北の方には宇治川が流れている。荒見神社の住所そのものは、久御山町田井荒見となる。こういった点にも、城陽の荒見神社と同様の状況が見られる。いずれにしろ大昔より木津川が何度も氾濫し、これを収めようと神を祀ったものだと考えられる。
 荒見神社全体の沿革や由緒については、訪ねた時に神社が発行している古いパンフレットが1部だけあったので頂いてきた。おそらくこのパンフレットはもう手に入らないものと思われる。詳しいことが記されていたので、以下にその紹介文を全部載せておく。
 他の資料としては、713年の『山城国風土記逸文』に「荒海の社、祇社。み名は大歳の神なり」と記されていて、奈良時代には存在していたものと考えられる。
 尚、本殿等、文化財指定はなされていない。見た目にもなかなかのものだと思われるが、何故なんだろうか。

       

荒見神社
祭神 武甕槌命(たけいかづちのみこと)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
仲哀天皇応神天皇
本殿 流れ造り、檜皮葺四坪
向拝所 唐破風造り、瓦葺三坪
拝殿 入母屋造り、瓦葺六坪
末社 天満宮(祭神、菅原道真)
   厳島神社(祭神、市杵島姫命)
社務所 入母屋造り、瓦葺一二坪
境内地 五二五坪

由緒
 田井の氏神である荒見神社は、「久世郡神社明細帳」によれば、「明治六年村社ニ被列、同年延喜式内ニ荒見神社記ト決定ノ旨府庁ヨリ達セラル」とあって、明治六年に式内社に確定された。延喜式内社とは、延喜五年(九〇五) 、藤原時平・忠平らが醍醐天皇の命により編さんに着手し、延長五年(九二七)に完成した『延喜式』巻九・巻一〇の神名帳に登載された神社であるが、荒見神社については、『延喜式神名帳』に久世郡荒見神社と記載されているもので、鎮座地については、城陽市富野荒見田にも荒見神社があり、現在論社となっている。
 いずれの社が式内社であるかということについては、両社が荒見・荒見田という類似する小字に鎮座し、また同郡に所在するうえ、共に五神を祭神として五社明神と通称していることなどから、どちらが式内社であるかの結論は下せない。
 荒見神社の由来は、近世の地誌類である『山城志』によれば、「今佐山村の西、大字田井に荒見の字あり、寛永七年洪水のため社地を失い、今の地に移す」と記されている。旧鎮座地は明らかでないが、伝えるところによれば当社の東南、下津屋に接する小字西荒見とする説がある。
 久御山は江戸時代、三年に一度平年作であればよいといわれるほど、洪水の多発地帯であった。田井を襲った寛永七年(一六三〇) の洪水は、特に被害が大きかったらしく、社寺をはじめ、民家のほとんどが流失したという。土地はその後現在地に移され、寛文四年(一六六四) の棟札(荒見神社所蔵)に「因正一位五社大明神社皆造宮、寛文四中辰歳大施主当村氏子中」とあって、水害後の造営であることがわかり、そのことは現在の社殿の建築様式からもうかがえる。

神仏習合
 明治維新までの荒見神社は、石清水八幡宮の影響を受けて、神仏習合の顕著な神社であった。安政四年(一八五七)に作られた「田井村寺社明細帳」には、氏神正一位五社大明神(荒見
神社)の項に、「真言宗 無本寺薬師堂 氏神境内にこれ有り候」とあり、また、「氏神御旅所 真言宗地蔵堂」と記されている。
 境内の薬師堂は、梁間二間・桁行五間瓦葺の建物で、神仏分離後は移設・改築されて社務所等になっている。
 また御旅所となっていた地蔵堂は、一間半四方の小さな堂宇であったが、境内は二五〇坪と広く、古老の伝承によると、集落の北辺にあったとされる。神仏分離後に地蔵堂は廃されたが、本尊地蔵菩薩像は円福寺に移安され、地蔵盆等で供養が続けられている。
 なお、荒見神社境内には弘法大師石像が安置されていて、神社に祈願して病気が治った信者が寄進したものと伝えている。

本殿
 寛文四年(一六六四)に再建された本殿は、獅子の彫刻や、柱・木組に残る極彩色の絵模様は、色彩が僅かに褪せているものの、江戸時代前期の建築様式を今に伝え、唐破風造りの重厚な向拝所と共にすぐれた建造物である。

社標と万葉歌碑
 参道入口の右手に、四メートルに及ぶ社標が建立されている。「式内荒見神社」と大書した文字は、明治三十三年十二月、正二位勲一等伯東久世通禧が揮豪したものである。東久世通禧三条実美と共に明治維新の元勲で、侍従長をはじめ、元老院貴族院・枢密院の副議長を歴任し、明治四十五年一月に没している。また、参道入口の右手脇に平成三年六月に建設された万葉歌碑がある。磨き御影石に「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」と、「万葉集」巻九に記載される歌詩が刻まれている。歌詩の「田井」にちなんで建立されたもので、久御山町唯一の歌碑である。

宮主と宮座
 戦前まで荒見神社には、宮主・宮座制度があった。宮主の起源は、昔、田井氏の本家が五社大明神社を創建したと伝え、後になって本家が三社を守り、二社の祭祀権を黒川氏と田井氏分家に委任したという。
 秋祭りの宵宮(十月八日)には、本家から栗・柿・鏡餅・玄米を合計二〇貫匁(七五キロ)と鯛・鯉を神饌として供えた。九日の本祭は二基の神輿が出て賑わっていたが、洪水で神輿を失ってからは、参道の人口に大提灯と、村の入口に高張提灯を掲げる程度の祭りに変っている。戦後、荒見神社の祭礼は、宮主・宮座から総代に替わり、祭祀運営を司どっている。 』