切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

京都市上京区 廬山寺・・・紫式部ゆかりの


<廬山寺>

  

 「源氏物語」の作者、紫式部で有名なお寺。
 京都御所の東側、京都府立医科大学の西側にある。すぐ近くを河原町通りが通っているが、少し横に入っただけで非常に閑静な地域となっていて、周囲にはお寺や神社が並ぶ。紫式部がこの邸宅に住んで「源氏物語」を書いたのではないかと言われる。ゆかりのお寺ということで、この日は平日で猛暑日だったが、そこそこ人が来ていた。お年寄りだけではなく若い女性も来ている。

     

 拝観料を払って本堂内に入っていく。各部屋に紫式部や「源氏物語」に関わる様々な物が展示されている。庭園は、京都のお寺の庭園は殆どがそうだが、ここも枯山水の庭園で「源氏の庭」と呼ばれ有名であり、ちょうど桔梗の花が綺麗に咲いていた。縁側に座ってゆっくりしている観光客が何人もいた。濃い紫色の桔梗の花は非常に落ち着いた雰囲気をもたらしてくれる。

   

 本尊の 阿弥陀如来三尊像は重要文化財で拝観できたが、残念なことに部屋の奥に鎮座していて、ちょっと遠くてよく見えない。老眼に眼鏡をかけても厳しい状態で、何ともそこら辺が残念無念。室内はもちろん撮影禁止。庭園の方を様々な角度から撮影していた。
 拝観を終えて外へ出ると、紫式部が詠んだという歌が歌碑として置かれていた。



 「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」
 意味は「久しぶりにめぐり会ったのに、それがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまうなど、まるで (早くも) 雲に 隠れてしまった夜中の月のようではありませんか。」

 

 この歌は百人一首の中にあるのでほとんどの人は知っていると思う。このお寺の存在は名前だけしか知らなかったが、なかなか落ち着いたいい寺院で満足できた。
 お寺の沿革などは頂いたパンフレットに記載されていたものをそのまま載せておく。



『【沿革】
大本山廬山寺(廬山天台講寺)
宗旨:天台圓浄宗
開山:元三大師良源
廬山寺は天台圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺という。
天慶年間(九三八)、比叡山第十八世座主元三大師良源(慈恵大師)が京都の北、船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。
寛元三年(一二四五)法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人(一三六八)によって廬山寺が與願金剛院に統合される。
この時以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となる。
その後、応仁の兵火に遭い、又元亀二年の信長の比叡山焼き打ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命を受け、天正元年( 一五七三)現在地・紫式部邸宅址に移転する。
当地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(八七七~九三三)から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。
それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。
紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したのである。
現在の本堂は、宝永五年( 一七〇八)、天明八年( 一七八八)相ついでの焼失後、寛政六年( 一七九四)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院閑院宮家の御下賜でもって改装されたものである。
明治維新までは御黒戸四箇院と云って、宮中の仏事を司る寺院が四ヶ寺(廬山寺、二尊院、般舟院、遣迎院)あり、その中の一つであった。
明治五年九月、太政官布告を以って総本山延暦寺に附属する。
昭和二十三年(一九四八)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至る。 』