切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

奈良市 唐招提寺・・・鑑真の執念


唐招提寺
 奈良市唐招提寺に行ってきた。



 学校でも必ず勉強するほど全国的に有名なお寺であり、中国から命をかけて日本のためにやってきた鑑真については、あえて言うまでもないほどに知られている。国道24号線を走り、西へ約1キロ。かなり広い境内を有している。すぐ西側には近鉄橿原線が走っている。また南1キロほどのところには、これも有名な薬師寺がある。ちょうど薬師寺五重塔の内、一塔が修復工事のようで、全体が工事用のカバー布で覆われているのが見えていた。
 唐招提寺の入り口の山門は比較的新しいもので、そこで拝観料を支払って中に入るが、山門前はバス停があり土産物店があり、その横にかなり広い駐車場がある。
 山門を入って真正面に国宝の金堂が目に入る。先にとりあえず境内全域を回ってみた。蓮の群生地や鑑真和尚の精密なレプリカが安置されたお堂、小さな森をくぐり池を渡って、伽藍が並ぶ中心地に戻ってきた。

     

 金堂の他にこれも国宝の講堂、経蔵、宝蔵、鼓楼、これらも全て国宝の建物。重要文化財の御影堂は大修復工事中だった。これらの建物だけでも見応えがあるし、中でも経堂や宝蔵は創建当時からの極めて古い貴重な建物だという。

      
 
 そして次に金堂に入る。全て国宝だという仏像がずらりと並ぶ。しかもかなり大きい。一瞬、京都の東寺の講堂・金堂内の仏像群を連想した。あっけにとられて見入ってしまう。盧遮那仏、千手観音等あるが、特に千手観音は、通常なら手一本あたり25本分の役割を果たすということで、実際には40本あまりというのが多いが、この千手観音は本当に約1千本ある。確かに見ていても壮観と言える。かつて解体修理された時の写真が掲示してあって、本体の周りに千本の腕の部分が並べられていた。組み立てるときも結構を大変だったろうと思われる。

(他HPより) (他HPより) (他HPより)

 続いて背後にある講堂に入る。こちらにも素晴らしい仏像が並ぶ。まさに圧巻。工事中の御影堂にある国宝の鑑真和尚像は、実在する人物の彫像としては日本最古の物だという。実物が見られる時期が決められていて、もちろんこの日は該当しなかった。

(他HPより)

 この唐招提寺には、国宝と重要文化財が、建物、仏像、絵画、古文書等、合わせて約700点あると言う。さすがにものすごいものだ。実は新宝蔵に他の貴重な文化財が展示されているのだが、なんとなんと8月中は閉館しているとのことで見られない。なんたることか。せっかく来たのに、事前にきちんと調べておくべきだった。
 鑑真や唐招提寺のことについては、文学や映画にもなっていて、特に井上靖の「天平の甍」に描かれていることはよく知られている。

(他HPより)

 鑑真は失明してまでも日本にやってきて、当時としては76歳という長命で、後の日本に重大な影響を与えた。そういったことを思いながら唐招提寺を見て回ると、1300年以上も前の先人たちの、すごい意気込みに感嘆せざるを得ない。



 以下はパンフレットに記載されていた紹介の文章。

『鑑真大和上と唐招提寺
 鑑真和上は六八八年に中国揚州で誕生、十四歳の時、揚州の大雲寺で出家されました。二十一歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられました。七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。
 翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ四百余人の僧俗に戒を授けました。これは日本初の正式授戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、七五八年大和上の称号を賜わりました。あわせて右京五条二坊の地、新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜わり、天平宝字三年(七五九)八月戒律の専修道場を創建されました。これが現在の律宗総本山唐招提寺のはじおりです。

金堂 [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造,本瓦葺
 南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と题した小説に書き、その名を世に広めました。内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊[乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天帝釈天立像[木造 国宝]が従い、須弥壇(しゅみだん)四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織りなす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう

講堂 [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 入母屋造、本瓦葺
 講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮一の宮殿建築の遺構です。本尊弥勒如来坐像[鎌倉時代 木造 重要文化財]は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 重要文化財]も講堂内部に共に配されます。

鼓楼 [国宝] 鎌倉時代 仁治元年(一二四〇) 楼造・入母屋造・本瓦葺
 瀟洒(しょうしゃ)な重層の建物で、本来は経楼とみられますが、鎌倉時代に再建されたのち鼓楼と呼称されたようです。一階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置しているところから「舎利殿」とも称されます。毎年五月十九日には、鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)の中興忌(うちわまき会式)が行われ、法要後、楼上からハート型の宝扇がまかれます。この鼓楼と対をなす建造物として鐘楼があり、当初の建物は残っていませんが、梵鐘[重要文化財]は平安初期の数少ない遺例でたいへん貴重なものです。

礼堂・東室 [重要文化財] 鎌倉時代 弘安七年(一二八四) 人母屋造・本瓦葺
 南北に長い建物で、従来は僧侶の起居した僧坊でした。講堂を中心に西と北にもそれぞれ建物があり、三面僧坊と呼ばれていましたが礼堂・東室のみが現存しています。中央の馬道(めどう)と呼ばれる通路で南北に分けられ、南半分の礼堂は解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)が始修された「釈迦念仏会」の会場に改められました。この法要では和上将来の仏舎利・金亀舍利塔(きんきしゃりとぅ) [国宝]が本尊として礼拝されますが、平素は清凉寺式釈迦如来立像[鎌倉時代 重要文化財]が安置されています。

宝蔵・経蔵 [ともに国宝] 奈良時代(8世紀) 校倉・寄棟造・本瓦葺
 礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら)様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。

御影堂 [重要文化財] 江戸時代
 もと興福寺別当寺院、一乗院の宸殿と殿上の遺構で、昭和三十八年( 一九六三)に移築復元して鑑真和上坐像[国宝]を納め御影堂としたものです。昭和五十年には東山魁夷画伯による障壁画が揮毫奉献され、和上の像を奉安する静寂な宸殿に、一層の荘厳さをもたらしました。毎年六月六日の開山忌舎利会の際、前後三日間だけ御影堂内が公開され、鑑真和上像を参拝することができます。