切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

石塔寺 京都府向日市・・・なんと、昔の勤務地の隣!



『洛西龍蕐
 法性山 石塔寺

    所在地 京都府向日市鶏冠井町山畑
    本 尊 十界大曼茶羅

 当寺は、明治十年 (一八七七) 代にまとめられた 「 乙訓郡寺院明細帳」によると、 鎌倉時代の末の延慶三年 (一三一〇)三月八日に、 開山日像上人が現在の場所に題目石塔を建立し、文明年中(一四六九~八七)にこの石塔の傍らに本堂を建立して寺院としたのが創まりと伝えられています。元和年中(一六一五~二四)に不受不施派の寺院として幕府に 願いを出しましたが、寛文六年(一六六六)に不受不施禁制後は、砂顕寺派に属しました。
その後、同寛文年間には、独立本山に成長し、その未寺は近畿一円に総数三三ヶ寺に達していました。
 明治九年 (一八七六) に鶏冠井村にあった興隆寺を合併吸収し、翌年に本堂・庫裏・座・小座敷・塔堂・七面堂・妙見堂・鐘楼・門などを整備しました。現在は、本化日蓮宗本山の単立寺院であります。
 周辺には、本寺にちなんだ「御茶屋敷」 「御塔下」「御塔道」などの地名が残っており、往時の伽藍の壮大さをしのばせてくれます。
 また、この地一帯は、長岡京(七八四~七九四)の時代には、都の中心部に位置し、造宮長官の藤原種継の暗殺場としても知られています。平安時代に、土佐国から帰路についた紀貫之が京に人る前に体息した「島坂」も当寺周辺だと伝えられます。
 鎌倉時代以降は、寺の前を通る西国街道を行き交う人々で本寺周辺は賑わいを見せ、豊臣秀吉明智光秀など歴史上の人物が次々と通ったと言われています。

  石塔寺
  向日市
  向日市教育委員会  (駒札より)』

  

 向日市にある石塔寺へ行く。
 このお寺の存在については全く知らずに、地図で色々行き先を調べている時に、向日市内のお寺や神社は既に何箇所も言っているが、ここはまだ行っていないということがわかりこの日の目標とした。
 ところが地図をよく見てみると寺のすぐ隣が、私がかつて勤務していた中学校。道路も何もなくグラウンドの塀に沿って完全に接している。当時はここにお寺があることなど全く知らず、その後も知らないまま年数が経った。中学校の正門の向かい側にある南眞経寺も当時は知らなかったが、写真を撮り出してからここにお寺があったのか、という状態だった。石塔寺の前の細い道は一法通行。中学校のすぐ横から入っていく。すぐに門前に到着。駐車スペースがあったのでそこに駐める。
  お寺の縁起については上記の駒札の内容の通りだ。これによると創建が鎌倉時代の終わり頃となる。日蓮上人の孫弟子にあたる日像上人が創建されたとのこと。その後の経緯については特に大きな変遷はないようだ。
 ただこの辺りはかつての長岡京の跡地であり、ほぼその中心地辺りになると言う。長岡京については藤原種継が暗殺され、その後種継の怨霊が毎夜毎夜、長岡の都を彷徨い不吉だということで、長岡京はわずか10年で廃棄され平安京に遷都となる。
 お寺は思っていた以上に境内が広く、一番奥に墓地があってその墓地が中学校のグラウンドに接している。ここから中学校を眺めると、勤務していた当時と校舎は全く変わらず、ただ壁面の塗り直しと、耐震化工事の斜めの柱が目に付いた。様々な意味で強烈な思い出が残っている中学校だ。きっと当時はこのお寺の方々も、騒々しい中学校に辟易していたのではないかと思われる。
 境内に配置された各建物については比較的新しく整備されており、木造建築ながら目で見てもその新しさを感じることができる。境内はきれいに整備されており、様々な植物が豊富で非常に雰囲気がいいお寺だ。
 おそらく鎌倉時代の終わり頃から始まったと言う、「花祭り」が今に継続されており「鶏冠井題目踊」として毎年5月に行われる。これは京都府の無形民俗文化財に指定されている。
 この辺りの住所は 「鶏冠井町」と呼ばれるが、これはかなりな難読地名となる。読み方は「かいで。」 元々は奈良時代の昔「九条蝦手」と書かれて植物の楓のことを意味した。その楓の葉が蛙の手の平の形に似ていることから「かえるで」と変遷し、さらに時を経て「かいで」となり、漢字は 「鶏冠井」が当てはめられ、本来これは鶏のトサカのことを言う。元々の楓が鶏のとさかとなったのはよくわからない。