切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

独居癌爺さんのつぶやき・・・東京パラリンピック開会  2021年8月25日



 昨日、東京パラリンピックが開会式を迎え、その様子は NHK で放映された。
 いわゆる開会式の出し物というのはかなり抽象的な表現形式をとっているために、解説を聞かないとその意味がほとんど理解できない。障害を持った人たちが日の丸を6人で広げて運んできた。しかし掲揚ポールの前に到着すると、自衛隊員がそれを引き継ぎ君が代とともに掲揚となる。こういう場で自衛隊員のきびきびした動きは、それはそれでいいのかもしれないが、私としては妙な違和感を感じた。その後の集団演舞のシーンは所々見ただけで全部は見ていない。

 本日から早速各競技が始まり、メダリストの第1号が競泳の背泳女子100mで誕生。2着に入り銀メダルを獲得したとあった。まだ14歳だと言うから中学生だ。ニュース映像で見たが他のほとんどの選手は、少なくとも両腕が動いて背泳にとってみれば有利な状況。しかし彼女は生まれつき両腕がなく両足も短かい。その状態で身体全身を使ってドルフィンキックのように懸命に泳ぐ姿は、正直尊敬に値する。そのようなハンディを抱えて泳ぐということ自体が難しいと思われるのに、やはり大いなる努力の賜物と言えるだろう。

 日本パラリンピック委員会としては、金メダルの目標を20個と定めていると言う。目標というのはそういうものなんだろうか。メダルの数が目標というのは、どう考えても納得ができない。個人個人の選手がベストを尽くして、金メダルを獲りたいと思うのは当然だろう。その結果金メダルに輝くケースもあれば、メダルに届かなかったというケースもある。喜びや悔しい気持ちというのは、その個々人及びスタッフたちが共感し合うものとなる。それを踏まえても、全体で金メダル20個だ、という個数にこだわるのははっきり言って時代遅れ。もちろんパラリンピックだけではなく、オリンピックにおいても同様のことが言える。やはりその背景にあるのは、大勢の選手が参加する競技大会の中において、個々人が一部を除いて、全体の中に見えにくくなってしまっているということがある。そして前面に出てくるのが、いわゆる各国のナショナリズムといったものではないだろうか。あくまでも目標というのは、選手個々人の様々なレベルの目標を、尊重した上で評価すべきものであると思う。個数の問題では絶対にない。

 まだ始まったばかりなので、テレビ放映についてはどのようになるのかはわからない。オリンピックの場合には、 NHK だけでなく民放各局も分担する形で実況中継があったようだが、パラリンピックの場合にもそうなるんだろうか。民放各局はあくまでも視聴率という数字が取れるかどうかで判断される。いわゆる報道の責任というものは後回しにされ、スポンサーに対して少しでも有利な放送が優先される。その結果 NHK が放送するというパターンになってしまうのではないか。もし民放局が生中継するとすれば、数多くある競技の中でも比較的よく知られた、ラグビーやテニス、陸上などといった、日本勢のメダルがかなり期待される種目に限られてしまう可能性が高いような感じがする。テレビメディアが放送するということの意味を、根本的に考えて対応して欲しいものだと思う。

 尤も私自身は、オリンピック同様、パラリンピックも実況中継自体は見るつもりはない。夜のニュースなどで見ることになると思う。オリンピックについては私自身は独自の不要論というものを持っているが、パラリンピックは少し違う。障害者のための国際競技大会というのは主要なものがあと2つある。
 「デフリンピック」これは聴覚障害者の世界競技大会だ。そして「 スペシャルオリンピックス」これは知的障害者のための世界競技大会となる。そしてそれらを総合して4年に1回開かれるのが「パラリンピックパラリンピックではあらゆる障害者が、それぞれの障害の種別や状況に応じてクラス分けがあり、比較的公正な中で個人競技団体競技に取り組む。したがって特に様々な障害を抱えた人々にとってみれば、あらゆる障害を持った人たちが集まる世界大会というのは、まさしくパラリンピックだけということになる。

 健常者であれば各競技ごとに世界大会はあるので、参加者数も含めてそれで十分成立するものだ。しかし障害者の場合には各競技ごとに世界大会はあるわけではない。あくまでも上記のように、聴覚障害者のための競技大会と知的障害者のための競技大会があるだけで、競技ごとの世界大会というものはおそらくないだろうし、仮に設定しても、参加者数は非常に少なくこじんまりしたものになると考えられる。そういった点から考え、パラリンピックの有用性というのは極めて大きいものだと思う。

 確かに4年に1回のパラリンピックにおいては、多くの人々が全員の応援をすることにより、メディアによる放送で改めて普段は考えないような、障害者のことを考える大きな機会となる。そして大会関係者にとってみれば、これを契機に日常的に障害者の頑張る姿を通して、街に住む障害者のことに少しでも関心を持ってもらえればと訴える。
 だが現実問題としては、障害者に対する差別というのは、未だに都市の中、村の中でも多々見られる。パラリンピックに出ることができるというのは、言い方としてはよくないが、本人の努力とともに、ある意味恵まれた条件があってのことだといえるだろう。全国の圧倒的多数の様々な障害者等は、現実問題としてかなり厳しい環境に置かれていることは事実だ。具体的なことはあえて言わないが、障害を持っている本人とともに、その家族の置かれた状況は極めて厳しいという実態が非常に多い。

 日本では、日本人は「民度」が非常に高い、などと自画自賛する雰囲気があるが、私自身決してそうは思わない。障害児学校に在籍していた時の事を思い出しても、障害者を何人も引き連れてスーパーに買い物経験に行く時などの、周囲の冷たい目と温かい目が両方そそがれる。フードコートに席を取ると、近くに座っていたグループが移動してしまうなんていう場面もあった。逆に声をかけてきて、障害を持った子達に頑張ってるね、などと温かい言葉をかけてくれる人もいる。いわば日本はそういった意味では「道半ば」といったところなんだろう。これは本当に「共生社会」と言われるほどになるには、相当な時間がかかると思う。政府がそのような言い方をする限り、障害者のための施設運営の厳然たる厳しさというものを調査し、さらなる支援が必要なのだ。資本主義日本の現状から、やはり資金が決定的に足りず、スタッフに支払われる給料も独身生活でようやく成り立つと言ったものだ。

 せめてこのパラリンピックが、人々の目に頑張ってる姿を焼き付けて、国民の個人だけではなく、政権が一部のいいところだけを切り取って見るのではなく、全国に存在する障害者たち、そして福祉施設の状況をきちんと掌握し、必要な支援を出すということが大いに求められる。今回の大会はその契機になって、社会の変革につながるようになれば一番良いのではないか、と改めて思うところだ。