
『長楽寺
寺伝によれば、延暦二十四年(八〇五)桓武天皇勅命によって伝教大師(最澄)を開基として創建されたと伝わる。当初は天台宗の寺院であったが、 室町時代初期に国阿上人が中興してから時宗に改められた。本尊に准観音像を祀り、洛陽三十三 観音霊場の第七番札所でもある。
一条天皇の時(九八六〜一〇一一)に巨勢広高という絵師が当寺で地獄変相の壁画を描いたことが今昔物語にみえており、文治元年(一一八五)安徳天皇の生母、建礼門院が僧印誓について剃髪されたところでもある。また法然上人の弟子 隆寛がここに住み念仏を広めた。当時はこれを長楽寺流と呼ぶほどに世間に知れ渡っていた。昔は祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、多くの文人や画家が訪れたところである。
寺宝には、一遍上人像を含む七人の上人像(全て重要文化財)、一遍(宗祖)、真教(二祖)、一鎮(遊行六代)、尊明(遊行十三代)、太空(遊行十四代)、 尊恵(遊行十五代)、暉幽(遊行十七代)の諸像や建礼門院御遺宝、相阿弥作と伝わる庭園がある。 また、境内山上の墓地には、江戸時代後期の歴史家頼山陽やその子頼三樹三郎、水戸烈士の墓もある。
京都市』 (駒札より)

『長楽寺の由来
当寺は延暦二十四年(西暦八〇五) 桓武天皇の勅命によって伝教大師を 開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建、 古来勅願所として歴代天皇の御帰依深く、御本尊は御即位のときのみに 御開帳される秘仏の観音さまです。
当初(平安時代)は天台宗の別院でしたが、その後室町時代の初期当時の 一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治三十九年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今に至る。また、当寺はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名寺でありましたが、 大谷廟建設の際幕命により境地内を割かれ、明治初年境内の大半が円山公園に編入され今に至る。』
(パンフレットより)

(建礼門院の墓)

長楽寺は八坂神社、円山公園の東側奥地にある。ほぼ東山山麓に沿ったところであり、周辺は緑の木々に覆われた、京都市という大都会の中とは思えないような光景が広がるところだ。
最澄によって開基されたと言う長楽寺はもともと天台宗のお寺であり、一時は寺領も広く大いに栄えた。後に時宗に改められるが同時にまた、大谷祖廟の建設によって境内は大幅に狭められることになる。
お寺は平安初期に創建されており、平安貴族が権力を握り隆盛を極めた時代だった。また平家が力を鼓舞し支配的な立場にあったが、後に源氏が力を増して対立するようになる。最終的には源平の合戦において、源氏が勝利し平家は滅亡していく。そんな中、残されたのが平清盛の娘である平徳子、後の建礼門院だ。
平家の残党は各地に逃れ落人となって、世の中からは知られないようにひっそりと暮らすようになる。徳子は長楽寺に身を寄せることになり、身寄りもなく一人残された中、ここ長楽寺において出家する決意をし、髪を剃って尼僧となる。そして大原の寂光院へ入り、慎ましやかな生活をすることになっていく。
彼女の元を訪れた人の記録によると、かつて栄華を誇った平氏の優雅な暮らしからは想像もつかないほどの、落ちぶれた生活の様子を見て驚き、嘆いたと書き記している。この辺りの様子については、「平家物語」にも描かれており、様々な描写の内容については事実かどうかは分からない部分もあると言うが、いずれにしろかなり厳しい生活状況であったことは確かなようだ。
建礼門院は彼の地で亡くなった後、寂光院に墓が建てられたと言うことで、今も残る。そしていつの頃かわからないが、出家した時の長楽寺にもお墓が作られた。長楽寺においては少し小さめの石造十三重塔が建てられており、そこが墓所となっている。

今回は春季特別公開ということで訪れているが、宝物館には多くの重要文化財に指定されている仏像等が並べられ、また建礼門院に関する資料も展示されていた。また本堂は京都市の指定文化財。また歴史家の頼山陽の墓もここにある。

(パンフレットより)
