切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

2023年 京都の紅葉撮り 伏見区 乃木神社・山城えびす神社    2023.12.10 訪問

  

『由緒   大正5年9月13日創建

文武の功績こよなき乃木希典命とその良妻であられし乃木静子命を鎮め祀る。
 明治の御範新、爾來國運の進行を園らせ給ひける明治天皇は、明治四十五年七月三十日、崩御あそばせし。
 天皇の「朕が百年の後は必ず陵を伏見に登むべし」との御遺志により、御陵は伏見桃山 の地に定められしむ。大正と元就が改められし九月十三日、國民の深き悲しみの中、東京 青山葬場殿にて御大の儀は行はれり。
 天皇の靈柩が御轄車に移され、絵々斎場に向け鹵簿が皇居を出てむとする蹴砲ありしま さにその同じ刻に、軍事參議官兼學習院院長陸軍大將從二位動一等伯乃木希典はしも、 姿靜子とともに

 うつし世を神さりまし、大君のみあとしたひて我はゆくなり

 神あかりあかりましぬら大君のみあとはるかにとろかみまつる

 出てましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふそかなしき  靜子

との辭世の詠をば遺し、赤坂の屋敷にて皇居に向かい、天皇の御靈への忠義の誰なりと 自らの命を捧げ追腹せさりける。
 國民が仰ぎ畏みつつもまた墓ひ参りてやまぬ明治天皇崩御と、忠臣乃木大将とその妻の揺るぎなき高邁なる志と清き潔き振る舞ひの知らせは、國民に甚だしき驚きと深さ悲し
みを以て迎へられ、人皆言葉失ひ心虚ろに、蕭蕭とならぬものはあらず。夏目漱石は、「共の時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終はつたやうな気がしました。尤も強く
明治の影響を受けた私どもが、その後に生き殘つてゐるのは畢竟時勢遅れだと云ふ感じが 烈しく私の胸を打ちました。」と、著書「こころ」にて「先生」に語らせき。また西田幾 多郎博士は其の著に「乃木さんの死に就いて、かれこれ理窟を言う人があるが、此の間何 等の理窟を入れるべき餘地がない。近来明治天皇の御前御と将軍の自害ほど感動を奥へた ものはない」と語りき。また黒岩涙香は、「國民は彼れを神として祭る可さか、然り、彼 れを神として祭らんば、復誰を祭らんや・・・・ 實に乃木将軍は神にて在はしき」と記し、 お二人の赤味に感銘受け多かるに秋さ惜しみてその死をば悼むなり。
 乃木大将は、その師たる玉木文之進より譲り受けし、吉田松蔭自筆なる「士規七門」と 山鹿素行『中朝事實」を肌身離さずして、戰場に趣く折りも必ず携へ行きたりといふ。 玉木文之進は、松の叔父にして山鹿流兵準の師なり。また松下村塾を開きし人なりける。 乃木大将も、玉木文之望を師として山鹿素行「中朝事實」を學び、史『穂を受んびる 大御園の旅へと起士の道とをばいとよく修めたりき。それ故乃木大将は、死に逝く三日前、 自ら書き応し朱を入れたる「中朝事實」をば、述。営殿下(後の昭和天皇)に御進講の上 献上れり。
 私の心無き武士の募りと天皇への赤き心をその命を以て表しける顔ひ稀なる人として 乃木大備は、国民に尊び崇め奉られける。また朝な夕な質素、儉約に務められ、陰日向な 素直に人の歩むこと旨とし、軍人としてぞ功は素より、學門を通じ人の道を究め、 眞の理をばひたぶるに求めし比類無き有徳の人としてぞお姿に、人々は心打たれ敬ひき。 逝きて後、其の勝れたる御遺徳を蒙り奉りて敬ひ崇めること神の如くなりき。斯くして 「乃木さん」と親しく華小國民の誠心愈々昂まり、京都をはじめ北海道、栃木、東京、香川、 山口など全國各地に「乃木神社」は建立せられき。
就中、明治天皇鎮まりたる伏見桃山陵を拜するが如く、恰もお側近くに奉仕ふやう南側に建つ當神社の景観は、死してなほ天皇に侍り奉るが如く、まさに乃木大将辭世の詠のままなりける。
境内地は、もと皇室の御料地なりしが、當神社創建せし村野山人翁をはじめ、建立熱駅 せし政財界人、軍人なら人々の力盡くしと、時の政府の力添へにて殊に建設の儀許され、大正五年(一九一六) 九月に建てられき。 此は全園に建てられし乃木神社中、第二番目に早き創建なり。なほ子命は、はじめ本殿脇の攝社に祀られたれど、後に御本殿に遷し合せて祀られき。
創建の元となりし村野山人翁は、薩摩の人にて、九州、關西の各電鐵經營に黎煮し取締役等歷任せし人なり。なほ衆議院議員も二期務むらなど、關西の政財界を代表せし人物なりき。村野翁はしも、明治天皇の御大葬にあたり京阪電氣鐵道株式會社の代表として参列したりき。明くる日翁は、乃木夫妻殉死の報に接し、多からに感じ入り或る意決しき。
共は乃木夫妻の一周忌に當たる一年後勤めたる會社を辞し、自らの全ての身代投じ明治天皇の奥津越たる伏見桃山陵の傍らに乃木希典大将と静子夫人を祀り、御遺徳を仰ぎ身び共の赤さ心永く後の世に傳へむとの大き志なりき。 斯く當神社は、村野山人翁とその志に應へ賛する時の政府や軍人どもの熱意と盡力により大正五年九月、建立に至りける。尚、この地はかつて伏見越在りし頃(一五九五~一六一五)、坂倉周防守の屋敷跡なり けるに、その故以て「坂倉周防」と名附けられたり。』
  (由緒説明板より)

  

 乃木神社伏見桃山の少し東側、小高い丘陵地帯に広がる。名前からわかるようにこの神社は明治維新前後から明治時代にかけて、歴史上に大きな役割を果たした軍人である乃木希典を祀ったものであり、創建は大正時代となる。従ってまだ100年余りの短い歴史しかない。
  乃木希典については映画や小説などにおいて、日露戦争における日本海海戦や旅順の203高地攻略の戦いに描かれており、日本を勝利に導いた軍人として非常に有名だ。もちろん日本海海戦だけではなく、明治維新前後の頃から頭角を現しており、また日清戦争での関わりで武勲をあげたことから昇級し、日露戦争においては主導的な役割を果たしている。彼の息子2人はともに戦争で亡くなっており、そういった意味では戦争における犠牲者の立場でもあると言える。

 司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」などで非常に有名になっていて、描かれた側面だけが一人歩きしているような面もなきにしもあらずだが、人間的にも筋を通す厳格さを持ち合わせ 特に日露戦争におけるロシア軍への勝利に関し、ロシア兵の捕虜たちを手厚く保護したという話は世界的に知られており、そういった意味では軍人の鏡として、あるいは日本人の国民性を世界に知らしめた格好の例としてよく取り上げられるものだ。また日露戦争後にはドイツへ留学しており、ちょうど同時期に医師の森鴎外も留学していて親交を結んでいる。日本に戻ってからも乃木希典の相談相手としてその親交は続い。

   

 また明治天皇からの厚遇を受けており、乃木希典明治天皇に対する信頼感は極めて強いものがあり、本人が戦争において躊躇した場面などを回顧し、その責任を取って妻と共に自刃したいと申し出たことに対し、明治天皇はそれを強く引き止め、どうしても自刃したいならば天皇が亡くなった後に考えるようにとの言葉を与えた。結果的には明治天皇が亡くなった直後に乃木希典は妻静子とともに2人揃って自刃している。

 このような乃木希典の近代日本における功績や武勲、あるいはその人間性に対して世界からも尊敬を集めた人物であるということで、後年彼を祀る神社が日本各地に建立された。従って各地に乃木神社というのはあるが、京都の乃木神社もそのうちの1つに数えられる。詳しいことは由緒に記されている。

   
 
 丘陵地帯の広い 境内には立派な山門がそびえ、境内を奥へ入っていくと本殿がある。その横には山城ゑびす神社が建っている。そして境内には多くのもみじの木や銀杏の木が育っており、紅葉シーズンには赤や黄色の見事な風景を演出している。

     



 


『山城ゑびす神社

 村野山人翁は、創建にあたり乃木夫妻お二人及び勝典・ 保典両ご子息の四柱を御本殿にお祀りすることを、時の 内務省に願い出しましたが、当時は乃木大将一柱の奉祀 しか許可されませんでした。そこで山人翁は、大正七年、 御本殿の西隣に静子夫人の御霊をお祀りする社殿を建てることを願い出、「静魂神社」が大正八年に建てられました。
 その後「恵比須神」(蛭子皇子)を首座とする「七福神」 が合祀され、「静魂七福社」と称されるようになりました。
 七福神合祀に至った年代や経緯は不詳ですが、以来地元伏見を中心に、南山城地域唯一の「ゑべっさん」として、 商売繁盛の信仰をあつめて参りました。
 平成十八年、乃木神社創建九十年を機に、山人翁の創建当初の望み通り、静子夫人の御霊を乃木神社御本殿へお遷 しし、乃木大将と仲睦まじく相並んでお祀りすることとなり、「静魂七福社」は、「山城ゑびす神社」に改称しました。 また、平成二十七年、山城ゑびす神社御本殿の修復工事のため遷座祭を行った際に、「七福神」の奉祀を改め、 主催神である「恵比須神」(蛭子皇子)のみ奉祀することとなりました。

ゑびす祭 一月九日 宵宮   
     一月十日 本宮 』
   (境内説明板より)