切れ切れ爺さんのつれづれ日記

京都の寺社紹介と多様な社会問題・闘病記等

2024年 京都の紅葉 勸修寺    京都市山科区    2024.11.28 訪問



 山科区の勧修寺。とても行きやすい場所にあるので今まで何度も何度も訪れている。年間通して様々な花々が咲き誇り、どのシーズンに行っても季節にあった花が咲いていて満足できるところだ。しかし自分の記憶の中では、勸修寺の紅葉もブログにアップしていると思っていたが検索しても見当たらない。ひょっとして紅葉はまだだったのかとも思ってみたが、 どうも不明だが検索から外れてしまうようだ。ただ久しぶりのことには間違いない。鮮やかな赤い色が境内全体を覆っており、特に京都市の名勝庭園に指定されている広い 池のある 境内は、ベンチに座ってゆっくりとくつろげる場ともなっている。そんな中で青空の好天、そして赤いもみじ、黄色のイチョウ。これらが相まって絶好の撮影日和 となった。

  

京都市山科 勧 修 寺

 勧修寺は昌泰三年(西暦900年)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。
 庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、且つ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉
庭園」です。古く平安時代には、毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さに依ってその歳の五穀豊凶を占ったと言われ、京都でも指折の古池になっています。
 書院の前庭にある灯篭は水戸光圀公の寄進で、「勧修寺型灯篭」と言い、『水戸黄門さま』らしいユーモラスなスタイルを以って有名なものです。又この灯篭を覆うように生えている
植樹「ハイビヤクシン」は、「ひの木科」の常緑潅木で樹令は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。
(パンフレットより)』

   

[京都市指定・登録文化財]
寝殿真言宗の寺院。宸殿は延宝4年(1676)造営の明正院御所御対面所を元禄10年(1697)に移築したもので,上段の一の間は書院造の構成をる。本堂は寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて,同12年に潅頂道場として建築されたものである。』
『本堂:天台宗門跡寺院。本堂(寛文6年・1666)は徳川家綱の援助による。全体に漆塗や彩色,彫刻が施されており,唐門・仁王門とともに日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもつ。境内の東寄りには17世紀後期造営の宸殿や使者の間・玄関など門跡の住居施設が並ぶ。』
京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課 公開資料より)

   

 勸修寺の歴史は極めて古く、平安時代にまで遡る。当時は藤原貴族の天下であり、その藤原氏に関わる寺院だ。もともとはその藤原氏の邸宅であったものが、寺院として活用されて後に勧修寺と名乗ることになった。藤原氏の衰退後は天皇門跡寺院となったが、応仁の乱によって消失。その後再建となる。現在では真言宗大本山ということで、これもいわゆる 鎌倉仏教が登場する以前からの宗派であり、そこにも長い歴史を感じさせる。
 現在ではある意味、観光 寺院となっているが、これはこれで貴重な 庭園を開放して安価で拝観や撮影、あるいは広い境内の散策を楽しむことができる。書院が国の重要文化財に指定されているほか、建物も京都市の指定文化財になっている。時々寺院公開があり、書院の内部が公開され、また指定こそ受けていないものの所有する仏像の公開もされる。数年前一度だけ公開時に訪れて拝見したことを覚えている。

     

『勧修寺
 真言宗山階派大本山で、平安中期の九〇〇年に醍醐天皇の母・藤原胤子を弔うために、胤子の母の実家である宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。
 天皇の祖父に当たる藤原高藤諡号をとって勧修寺と名付けられ、のちに醍醐天皇勅願寺となった。
 代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明二年(一四七〇)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重要文化財)と宸殿は、明正天皇より、旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。
 書院前の庭にある大きな傘を持っ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。その周りには樹齢約七百年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
 氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。
 京都市』  (駒札より)