
豊吉稲荷神社

『豊吉(ほうよし) 稲荷神社
東一口集落内にあり、疱瘡(ほうそう=天然痘) 稲荷社として信仰されています。疱瘡を「いも」とも言うことから、難読地名として有名な「一口」 (いもあら い) の地名由来の一つとなっています。
室町中期の太田道灌 (江戸城を築城した武将・歌人) が娘の疱瘡治癒のため、山城国一口の疱瘡神社に祈願したところ、きれいに治ったことから、江戸に一口稲 荷を勧請した話があります (参考: 『ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺』)。 豊吉稲荷神社入口に、 平成4年 「改農会」 (東一口の農業研究団体) 建立の社標があり、 表「正一位豊吉稲荷大明神」、裏に「東京都千代田区神田駿河台一口太田姫稲荷神社宮司柳原義雄謹書」と刻 まれています。 上記の 「太田姫稲荷神社縁起」 (同神社所蔵)にみえる話の真偽は分かりませんが、 伝承が現実に影響している事例として興味深いです。
『平家物語』宇治川の先陣争いに「いもあらゐ」と見えますが、「芋洗」 の初見は、 鎌倉時代の 『吾妻鏡』 承久3 (1221) 6月7日条です。 中世の巨椋池付近図ではたくさんの島があり、「三十六島」 が小芋を洗う農機具に似ていることからこの字になったという地形説があります。
豊臣秀吉の伏見築城期に大池堤が築かれ、そこに東一口の集落が形成されます。 北、東、南の三方が池に囲まれて、 西だけが入り口であったことから「一口」 の字になったという説もあります。
他にも、方違えによる斎払・忌祓(いみはらい)が転訛した説、 神事 「地貰い」 が転訛した説など、 「一口」 には様々な地名由来説があります。』
(「木津川の地名を歩く会 例会報 2011.3」より一部抜粋)

豊吉稲荷神社は前回紹介した安養寺の少し西側にある。やはり旧巨椋池の辺にあたるところで、そこそこ古い由緒を持っていると思われる。上に紹介した文章は山城地域の木津川沿いの地名を現地で調査し、まとめている民間団体が会報として出しているものから引用させていただいた。しかしここではあくまでも地名の由来が中心となっており、この神社そのものの由緒については特に何かが記されているというわけではない。そういった意味ではいつ頃からあるものなのか、どのような変遷を経てきたのか、ということはわからない。様々な資料を調べてみたが同様だった。
入り口に石柱が立っていて神社名の上に、「正一位」と確かにあったが、神社におけるこのような格式というのは稲荷社だけで行われていると聞いている。稲荷社の総本宮は伏見稲荷大社となり、同じ京都だ。その稲荷大社にも豊吉社があり、こちらとの関係性が推測される。
今は各地に稲荷社が広がっているが、正一位というのはそれらの中でも格式が高いということを意味するのだろう。ここの神社そのものは決して規模が大きく荘厳な感じというものでもなく、ごくごく普通な印象の神社だ。しかし境内はきれいに整備されており、祠にも真新しい狐が鎮座していた。この地域の人々にとってみれば非常に貴重な信仰の場となっており、豊作豊漁祈願や家内安全等がご利益となっている。
